「二重スリット実験」で見たように、量子の世界では「確かめる(確認する)」という行為が、結果そのものを決定づけてしまいます。
- 確かめるまでは、状態がひとつに決まっていない。
- 確かめた瞬間に、はじめて結果が確定する。
このような私たちの日常では考えられない奇妙な性質を、私たちの住む大きな世界(マクロの世界)に無理やり当てはめたとき、一体何が起きるのでしょうか。
それを極端なかたちで示したのが、あまりにも有名な「シュレーディンガーの猫」です。
箱の中の猫に、何が起きているのか
想像してみてください。
外部から完全に遮断された、密閉された箱があります。 その中には、一匹の猫と、ある装置が入っています。
その装置は、「量子が崩壊したかどうか」を検知して作動します。
- 量子が崩壊したなら ⇒ 毒ガスが発生し、猫は息絶えます。
- 量子が崩壊しなかったなら ⇒ 何も起きず、猫は生き続けます。
ここでのポイントは、装置のスイッチとなる「量子」は、確認されるまで「崩壊した状態」と「崩壊していない状態」が重なり合っているという点です。
「どちらか」ではなく、「重なっている」という結論
量子のルールをそのままこの箱に適用すると、私たちの常識を真っ向から否定する結論にたどり着きます。
箱を開けて中を確認するまでは、量子は「崩壊している/していない」の両方の状態を保っています。
そして、その量子に運命を握られている猫もまた、「生きている状態」と「死んでいる状態」が同時に重なり合って存在している、ということになるのです。
「生きているか、死んでいるかのどちらかだが、外からは見えないだけ」ではありません。
物理学の計算上は、「確かめるまでは、どちらの状態でもあり、どちらの状態でもない」という、あやふやな存在としてそこにいるのです。
この話は、猫の生死を語りたいのではない
考案者であるシュレーディンガーが本当に問いかけたかったのは、「量子の世界のルールを、私たちの日常にまでそのまま当てはめていいのだろうか?」ということでした。
目に見えない小さな世界では当たり前に起きている「重なり合い」が、猫のような大きな存在(マクロの世界)になったとき、なぜこれほどまで不自然に感じられるのか。
もし、量子力学が世界のすべてを説明する真理なら、「生きている」というはっきりした現実が決まる境界線は、一体どこにあるのか?
彼は、当時の物理学が抱えていた「現実をどう定義するか」という未解決の問題を、この猫に託したのです。
「生きている」が決まる、その瞬間の正体
この問いは、私たちの認識の根幹に触れます。
「生きている」という状態は、最初からそこに備わっている確固たる事実なのでしょうか。
それとも、誰かがそれを確認し、「生きている」と定義した瞬間に生まれるものなのでしょうか。
箱の中で何が起きているのか、外側にいる私たちには一切わかりません。
それでも私たちは、「自分が見ていなくても、箱の中ではどちらかに決まっているはずだ」と信じています。
しかし量子の世界は、その私たちの「確信」をあざ笑うかのように、「確認されるまでは、世界はあいまいで、複数の可能性が重なり合ったままである」という事実を突きつけてきます。
境界線は、今も揺らぎ続けている
現在の物理学においても、この「シュレーディンガーの猫」が突きつけた問題に、完全な終止符は打たれていません。
どこまでが量子のルールで動き、どこからが私たちの知る「確かな現実」になるのか。
どの瞬間に、重なっていた可能性が「たったひとつの結果」に変わるのか。
シュレーディンガーの猫は、答えを教えてくれる存在ではありません。
むしろ私たちが「当たり前」だと思っている現実の定義そのものが、実は人間の「確認」という行為に依存しているのではないかという大きな疑問を、今も私たちに投げかけています。
次は、「量子もつれ|不思議なつながりの話」
ここまで読むと、この世界は私たちが思っていたよりも、ずっと自由で、不確かに感じられるかもしれません。
ひとつひとつの物事が、確認されるまで決まらずに漂っているのだとしたら。 この世界にあるものはすべて、お互いに無関係に、ただバラバラに存在しているだけなのでしょうか?
実は、そうではありません。 量子の世界には、不確かさと同じくらい驚くべき「目に見えない絆」のようなルールが存在します。
次の記事では、どんなに遠く離れていても、まるで心を通わせているかのように瞬時につながり合う現象、「量子もつれ」についてお話しします。

